海を渡ってきた青い目の人形

杉並幼稚園と海を渡ってきた青い目の人形

大正の中頃、野口雨情、本居長世により童謡「青い目の人形」が作られ、子どもたちの間に広く歌われました。

青い目をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド
日本の港についたとき
一杯涙をうかべてた・・・

「レノア」という名前と新しいパスポート

この歌を聞いた一人のアメリカ人が当時重苦しい雰囲気にあった日米両国の友好をとり戻す事ができないだろうかと考えました。昭和2年、当時の日本は第一次世界大戦後の反動恐慌や関東大震災などによる経済不況が深まり、混乱のさなかにありました。 一方、アメリカも同じく、当時の経済不安の中で多くの失業者をかかえており、このため低賃金でもよく働き、しかも有能な日本人移民労働者への反感、人種的な蔑視、さらに文化的な偏見も加わり、排日移民法のもと日本人移民への迫害が見られました。このような両国の不幸な現状に心を痛めた親日家の牧師シドニー・ルイス・ギューリック博士は アメリカの本当の心を日本に伝えるため約1万2千体の青い目の人形を親善使節として日本の子どもたちに贈ってきました。ギューリック博士は平和の大切さを伝える使節として、政府の高官ではなく青い目の人形に、 そして語りかける相手は日本の高官ではなく日本の子どもたちに、との思いがあったのでしょう。 この人形は日本で大歓迎されました。当時の文部省はこの人形を朝鮮、台湾を含めた全国の小学校、幼稚園に配分し、各地で盛大な歓迎会が開かれたようです。

その中の1体が杉並幼稚園にも送られて参りました。園児数も少なく、創立まもない(大正14年6月7日創立)当園がどのような経緯で拝受の光栄に浴することができたのか記録は残っておりませんが、 3月の雛祭りにはそのかわいらしい姿が子どもたちの目を楽しませるようになりました。その後、日本からも答礼の豪華な市松人形が贈られ、アメリカ各地で大歓迎を受けたそうです。

しかし、人形の努力もむなしく両国の関係は次第に悪化し、その後不幸な結末を迎えることとなりました。それにつれ人形の運命もまた、あるものは戦災で焼失し、あるものは混乱のさなかに散逸し、 また部分的には敵性人形として破壊されることもあったようです。

時代は変わり、昭和61年ギューリック三世(ギューリック博士の孫、メリーランド大学教授)は来日した折、祖父の贈った人形の運命を尋ねたことから全国的にその存在を調査することになり、 その結果、現在252体が確認されているそうです。

平成3年8月には銀座三越に於いて人形製作会社吉徳の主催で秋篠宮妃殿下紀子様をお迎えして人形展が開かれ、その際、当園の人形も出展させて頂きました。また、人形には本来それぞれに名前もありパスポートさらに汽車の片道キップまで持参していたのですが、 永い年月の間に当園のものは紛失してしまい、この事を申し上げるとギューリック先生は当園の人形に「レノア」という名前と新しいパスポートを作ってくださいました。今も、遊戯室の一角にいただいた時に持参した古いカバンとともに飾られております。

青い目の人形が当園にきてから100年近くが経ちました。この間、日本とアメリカ両国の間には悲しい出来事もありましたが、今は人形の心に添える友好国としてさまざまな分野で交流が行われております。人種を超えて多くの国々との友情を育むためには幼少期よりの教育が大切でしょう。 教育は教え育てると書きますが、知識や技術のみを教えるのではなく、育てる心をベースにしてほしいと思います。特に、幼稚園・小学校・中学校、少なくとも義務教育の期間は人間として、社会人として生きて行くうえで、人としての感性を育むことは忘れてはならない大事なことと思います。 友情の大切さを、平和の尊さを、ギューリック博士はもの言わぬ人形に託し、その心を日本の子どもたちに伝えたかったのでしょう。

日本画家・藤井康夫先生描く

青い目の人形歓迎会(昭和2年)く




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